#1 牧野彰邦 (ex-the commitments)
・my room [NEW TELEPORTATION]
この曲を初めて聴いたのは、まだ僕とあゆ君がThe commitmentsというパンクバンドを一緒にやっていた頃だった。
ヴォーカルだった僕がその当時よく聴いていたのは「テニスコーツ」。とにかく、さやさんの歌声に憧れていた。こんな風に歌いたいと、よく真似したりしていた。
この曲のデモがあゆ君から送られてきたとき、あゆ君自身が歌いたい、とメッセージが添えられてあった。
曲を再生し、確かにこの曲はあゆ君が歌うべきだと思ったし、この人は「歌の人」なんだとも思った。とにかく、いい歌声だったのだ。
その”my room”のデモは、バンドの練習曲としてではなく、「好きな曲」として僕のipodの中で何度も再生された。テニスコーツと同じように、日常の中で聴く曲になっていった。部屋で一人ギターを持ち、こんな風に歌いたいと、歌う曲になっていった。そんな素敵な曲。
・commitments [NEW TELEPORTATION]
この曲は英語詞だが、日本語詞であゆ君が歌うのを一度だけ聴いたことがある。
その日、我々commitmentsは千駄木のハンバーガー屋さんでライブを主催していた。
店は当時あゆ君のバイト先であったこともあり、アットホームな雰囲気の中、満員御礼、窓が湿気で曇るほどに盛り上がっていた。
トリである僕らの演奏直前、あゆ君が突然「ちょっと時間がほしい」と言い、ギター片手にMCを始めた。お客さんやお店へのお礼を伝えたあと、最近作った曲ですと言って、静かに歌い始めた。
初めて聴く、日本語詞の、やさしいやさしい歌だった。「うたうの たのしい」というフレーズが印象的だった。
あまりにもいい歌だったので、僕はライブ後、あゆ君が足元にバミっていた歌詞が書かれた紙をこっそり持って帰ったのだった。
そんな思い出がつまった、大切な曲。
・米農家の娘だから [恋する団地]
僕がayU tokiO初期にサポートとしてギターを弾かせてもらっていた頃、ある日のスタジオで新曲ができたと言って、あゆ君はこの曲を弾き語りで聴かせてくれた。
一緒に聞いていたベースのすぐる君が「売れる!」とめちゃくちゃ興奮していたので、それ以上に騒げなかったが、僕も全く同感な名曲だった。
その後、ストリングスを入れたアレンジを聴いてさらに驚いたのは、パンクバンド時代、ずっと横であゆ君の作る曲を聴いてきたからだったと思う。こんな曲もつくれるようになってしまったあゆ君を、僕は目の当たりにしたのだった。この人はこれからもっといい曲を作っていくんだろうな、としみじみ思ったのを覚えている。
ちなみに、僕はあゆ君の弾き語りが好きなので、いつか弾き語りだけのアルバムを出してくれないかなと思っている。
・メビウスの輪 [恋する団地]
「いい曲を聴くと笑っちゃうよね」
初めてtotos のライブを生で観てニマニマしている僕の横で、あゆ君はそう言った。あゆ君も笑っていた。
それが2008年9月の話。そのずっと何年も後、久しぶりに観に行ったayU tokiOのライブで、この『メビウスの輪』を聴いたとき、僕は最初から最後までずっと笑ってしまっていた。曲があまりにも気持ちよく展開し続けていくので、ものすごく興奮したのを覚えている。
今、これを書きながら、改めてこの曲を聴き直しているけれど、やっぱり笑ってしまう。
個人的に2番の「道々に美しい花」と言うフレーズにグッときます。
・大ばか [遊撃手]
あゆ君の歌は、ひとりぼっちで聴きたくなる。
ちょっとさみしいとき。落ち込んでしまっているとき。一人でとぼとぼと家に帰りながら、または家で洗濯物を干しながら、この曲を聴いたりする。
元気が出るとか、なぐさめてくれるとか、そんなではなくって、何かがじんわりと込み上げてきて、あゆ君と電話した後みたいな、ほんのり温かい気持ちになる。
ていねいで、やさしくて、一生懸命で、誠実で、本当にいいやつだな、って聴くたびに思う、僕にとってはそんな曲です。
あゆ君、これからも素敵な歌をたくさん聴かせてね。
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てるくんとは20歳くらいの頃にthe commitmentsというバンドを組んで活動してました。
てるくんはボーカル、僕はギター、他のメンバーはベースのちさとさん。(現在the steadysでギター)、ドラムは最後までなかなか定着せず と言う感じでした。
てるくんはミクシーのメン募で来た人で、とある大学の応援部に所属していたというバキバキの体育会系 のはずなんですけど、明らかにナードな雰囲気を醸してる変わった人でした。
「音源を聴きたい」というので「MDを持ってきた」と言ったら電化量販店に連れて行かれ、そこで店に並ぶMDラジカセで2人でバンドのデモを聞くという愚行。
初めて会った時は僕1人だったんだけど、その後ですぐにちさとさんに電話して「やばい奴っぽいけどどうしましょう、、」と相談した記憶があります。でもその後ずっと友達。
20代前半はてるくんとちさとさんと何かといつも集まってたな。
若い時のバンドってそんな感じかなって思います。まあとにかく楽しかった。
ほんとどうにもならないバンドだったけど、思い出いっぱいあります。
当時の僕らには手に取りやすい距離に諸々の情報ほとんどなくて、
憧れるものへの過程に、ほぼノーヒントで色々試行錯誤してやってたな。いわゆる「無駄が多い」動きだったと思います。
はたから見て無意味に思える時間と金の使い方の中で得られたものは 結果、やはりかなり無駄なもののような気もしますがどれも愛しい。
メンバーでてるくんの家に集まって、カセットのMTRでレコーディングの真似事をしたりしました。(当時の僕はカセットMTRしか扱えなかったから。というかまずパソコンを持ってなかった。)
ヘッドホンを付けて歌うことが初めてだったテルくんがあまりに全力で歌うもんだから大家さんが「まきのさ〜〜〜ん」って怒鳴り込んできたりしたけど、全力で熱の入った歌を披露するテルくんはかなり良かった。音程はかなりイかれてた。
アイデアはあるけど技術は0みたいな時間をただただ愛していたし、愛している自覚も全くなかった。
純度の高いのどかな日々だった。(もちろん常にそれなりの悩みもあったけど。)
そういうものの価値は後から必ず滲んでくる。だから無駄とも言い切れないんだな。
ちなみに、その後いろんなところで「無駄なことはした方がいい」とかいう言葉を聞いて、
その通りだけどコイツが言う「無駄」は本格的にクソだろうな と思ってました。(20代)
本当にいろんな人がドラムでメンバーに入ったりしたけど、どうにも定まらなくて、最終的には当時日本に住んでいたジョン・フーというアメリカ人がドラム叩いてくれてました。(カリフォルニアのshinobuっていうバンドのメンバー)
英語が上手く話せなくて辞書持ってスタジオに入ったり、変な感じだった。
音楽を説明するのに必要な単語って、結構難しいな と当時思いました。
(この時の無念な気分はその後少しずつ形を変えつつ自分の中にあり続ける課題となってて、今もまだ続行中ですが長くなるのでその話はまたいつか。)
バンドが終わる頃、僕はもう少し自分の音楽をちゃんとやれる場所があったらいいなと考えるようになっていて、それまでの数年では自分がそんな風に考えるようになることもあまり考えていなかったので、少しずつ変化していくものについて考える様になった。
「寂しい」という感情に少しずつ多面的な風情を感じられる様になっていったのも彼らと過ごした時間の中で、です。
「COMMMITMENTS」という曲にはそういう気分がこもっていて、
はじめに書いた日本語での歌詞は「好きだから いいんだよ」
ayU tokiOを始めて、最初のメンバーにはテルくんがいて欲しいと思った。
2011年頃って自分の中で本当にいろんなことがあってすごく寂しい気持ちでいて、やっぱり思った通りayU tokiOはきっと彼らには「意味」を分かってもらえてなくて、この先もそれはきっと寂しいだろうと感じていて、どうしても自分のことを見ていてくれる人が僕には必要だった。
いつだって不安な時に電話をかけてしまえる様な友達が僕にとってはテルくんなんです。
大事なことがわからなくなったら、ほめほめノートで啓発します。
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